感謝

先日、帰省しておりましたわたくしですが理由は父親の病状悪化のためでした。

仕事柄、病状は悪化しているとはいえども訪問看護の利用者さんもいるため正直帰省には迷っていました。

スタッフには事情は伏せていたのですが、状況を知らせていた唯一のスタッフの「行ってきてください!!ステーションのことは任せてください!!悔いの無いようにしてください!!」の一言に勇気を頂き帰省したのでした。

29日帰省直後に病院へ直行しました。

到着後、想像以上の病状不良で正直驚きました。

酸素吸入MAXな状態でも、久々に会う息子へ気丈な姿で一生懸命に対応しようとする父親。。。

酸素吸入していながらも、少しの体動でも酸素飽和度が80台に下がり心拍数は150台へ上昇する容態で話をするのもやっとの状態でした。

年末年始も帰省せずな自分を責めました。

翌30日に主治医のICを家族代表で受けましたが、難病と間接性肺炎、直腸がんに加えて左肺にこぶし大の肺がん腫瘍があることが判明し、骨転移も多数箇所に至っていることが分かりました。

難病指定されてから約半年も経過していないのにとてもや早い病状進行具合でした。

父の意思も尊重しDNRをお願いして、余命宣告は本人にはしないで最期を苦しまずに迎えれるようにお願いしました。

1/23からのパルス療法の効果も全くなく経過、直ちに止めてもらい緩和医療、疼痛緩和ケアへ移行をお願いしました。

父親は俄然、在宅に戻り車の免許更新と5月の孫の運動会に向けて退院を心待ちにしていました。

家族全員には日単位での余命であることをわたくしより説明。父親には最期まで希望を捨てないように話を合わせて、決して悲観的な対応をしないようにお願いしました。

翌31日には容態がさらに悪化。

この日私は仕事もあるため帰阪する予定でしたが、経験上あと数日で「最期」を迎える事を察して滞在を5日まで延長しました。

これもステーションのみんなの協力あってこそできたもので今では大変感謝しています。

2/1より本格的にモルヒネ投与開始し、翌2日には増量(早送りは幾度も)。

最後に交わしたのは2/2の夕方で、「また明日来るけんね」でした…。

その数時間後、日付は変わり2/3の深夜に容体悪化の連絡が病院よりあり、そのまた2時間後に再び連絡があり、これはただ事ではないと母と病院へ急行。タクシーで病院に着いたのが深夜3:06。

かけつけた時には、ベッド上で下顎呼吸して意識がない父が懸命に「生きよう」と頑張っていました。母親と駆けつけた私は、母に「最期まで耳はちゃんと聞こえているから、お母さんが励ましの言葉を言ってあげて」と助言。

母が父の手を握り、一生懸命に父に話しかけていました。

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その約10分後…。

父親の目から大粒の涙が1粒落ち、その後大きな呼吸をして…

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モニターの心拍数が「0」になり心拍停止。

さも、母親の到着を待っていたようにスッと息を引き取りました。

その姿を後ろで見ていたわたしは、このブログを書き6日が経過しますが未だに目に焼きついています。

夜勤担当の看護師さんはモルヒネに加えて鎮静剤の指示を医師から請けて実施した自身を責めて涙し、深々と頭を下げるのでこちらが申し訳ない思いで一杯になりました。

あれだけ喧嘩ばかりしていた両親ですが、母が大腸がんを患ってからは、父の献身的な介護をする姿が印象的です。晩年の数年間は本当におしどり夫婦でした。

最良の夫婦(両親)の「最後の別れ」の素晴らしい光景を息子ながら最期に見せ付けられた感でした。

その後、エンゼルケアを後から駆けつけた家族とともに行い。

細部は病棟の看護師さんと私も同席させてもらい清拭や髭剃りなど行いました。

最期まで私の父らしかったです。

素晴らしい父でした。最高の父親でした。

親孝行は早めに!!精一杯!!、もういいって位するべきです。

あの世に逝ってしまっては何もできませんから。。。。

人の生死は本当に尊いものです。

幸いなのか医療・介護の仕事に就かせてもらっている私は、この体験を今後に活かしつつ父が天国で見てくれているので、恥ずかしくないように精一杯頑張っていきたいと思いますし、それを父に最期に教えられたと思っています。

最期の看取りまで帰省させてくれたスタッフ、不在時の会社、ステーションを守ってくれたスタッフに本当に心からの感謝を伝えたいです。

みんなありがとう!!